宗教法人福聚寺

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寺院の由来
「大慈山福聚禅寺」の真新しい石標のたつ石段を登り山門を入ると右に入り口がある本堂、その右に庫裏、左に鐘楼と、禅宗特有のたたずまいをみせます。
過去帳の記載からうかがい知るこの寺の過去は、意外に古く、寺社旧記の記す「与保呂三村の寺」は事実らしく、過去帳の裏には、一紙「宗門請状」書式を残しています。書式には江戸時代中期のものとみられ、その頃、常にある福聚庵(福聚寺の前進)は、与保呂三カ村の惣寺として意識され、キリシタン宗門改めなどを行う藩政の出先機関の役割を担う寺であったことがわかります。
伝承によると、福聚寺は、常村北側山腹にあり、火事で焼け1823年【文政6年】現在地に移りました。その後1927年【昭和2年】藁葺き屋根から瓦葺屋根に吹き替え現在に到っております。

本堂・本尊聖観音菩薩
福聚寺の本堂内は、左右に上間。下間の間をおき、中央に須弥壇その後ろに位牌堂を配するという、典型的な禅庵の形をとっています。
本尊は須弥壇厨子内深くに祀れてこの地方ではあまり見かけない象容の聖観音菩薩坐像です。一見如来形ともみえるふくよかな坐像は、頭部に宝けい大ぶりな冠そうのさがる宝冠をいただき、右手に印を結び、左手に持物を握る形から、聖観音菩薩坐像です。
仏像の造象からもうかがえる江戸時代中期以降【1828年(安政11年)】の作です。聖観音菩薩は立像が一般的で、坐像に作られる例は少なく珍しいものです。光背と台座の豪華なつくりとあわせて、その時代の粋を見せるy中央作とみえます。

位牌堂の中央にはご本尊とは違って、古仏の静けさをただよわす地蔵菩薩立像です。寄せ木造りの躰部は衣文の彫りも鋭く、裾前がY字形につくられるものも古楊をみせます。柄衣の表面には、一部に載金による精緻な文様があり、像高六十三センチです。

本堂・位牌堂地蔵菩薩
位牌堂の中央にはご本尊とは違って、古仏の静けさをただよわす地蔵菩薩立像です。寄せ木造りの躰部は衣文の彫りも鋭く、裾前がY字形につくられるものも古楊をみせます。柄衣の表面には、一部に載金による精緻な文様があり、像高六十三センチです。

鐘楼
境内地でひときわ目立つ建物は鐘楼です。鐘楼内の各天井にのこる棟札によると、この鐘楼が作られたのは、明治時代泰州和尚の時ときで「明治三十一年暮春十八日」となっています。
この寺に、どうしても立派な釣り鐘が必要だと考えその資金を集めるために工夫をこらしました。その頃は、与保呂川河口の海辺は、北前船が活況を見せはじめていたといいます。その船主や荷主の中に「二谷」「木下」など与保呂谷出身者の名がありその人達の勧めもあって、その積荷の一つ塩の売買に目をつけたのです。こうして与保呂谷へ入る塩はすべて福聚寺を通すこととなり、その利益が積み立てられ釣鐘の鋳造資金となりました。
福聚寺の鐘は、当時名鐘として与保呂谷の人々の自慢の一つでした。海から離れた地でありながら、この鐘が「塩から生まれた鐘」として近郷に知られることになり、朝夕ひびきわたる鐘の音は与保呂谷にさわやかな潮の香りを運び続けるかのようです。

いま一枚の棟札は「再鐘鑄 昭和二十四年三月吉日」と記しています。明治の「潮から生まれた鐘」は昭和十七年第二次世界大戦時の金属供出によって「お国のために」と寺を出る運命になり戦後村人たちの熱意により再びよみがえったことを伝えています。

昭和二十八年九月二十五日、この地方を襲った台風13号は、与保呂谷にも大きな爪あとを残しました。当時の常新町と常村の避難所が福聚寺でした。午後になると、洪水の危険が現実となり、まもなくお寺の鐘がものすごい気持ち悪い音でなりひびきました。五十年前の台風の日福聚寺の鐘は、緊急避難の早鐘として撞かれました。翌朝の鐘は災害復旧への励ましとして撞かれました。

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